「利家とまつ」の跡をめぐる

 平成14年8月14日から17日にかけて、琵琶湖の周辺をまわってきました。

 考えていると、琵琶湖を間近で見たことがなく、昨年の10月に猪苗代湖のそばをドライブして以来いつか、琵琶湖へと思っていた。やっと、まとまった時間がとれるので、東京から車で移動する。

8月14日:東京を出発し、米原のビジネスホテルに泊まる

 横浜で車を受け取り、そのまま高速に入り、東名の横浜から北陸道の米原まできた。東名が、横浜と厚木間だけ大渋滞のほかは、快適にドライブできた。沼津あたりで、伊豆半島がとても近くにはっきり見え、油井のPAが、伊豆半島と富士山が見えるポイント。また、富士山も雲がかぶっていたが下半身ははっきり見えた。
 日本は広い。岐阜に入ったら、土砂降りになった。北陸道は、土砂降りで一時閉鎖の勢い、とかの表示があった。関東圏の晴天を考えると信じられない。
 何の因果か、とんでもないビジネスホテルに泊まってしまった。JRの米原駅前にある。琵琶湖のガイド本に載っていたので、電話してしまった次第。やはり、部屋は見てから決めるというのが海外の飛び込みの宿探しの基本のようだが、日本では、そんなことさせてくれないで諦める。
 私の泊まったビジネスホテルのワースト1に入るかなというところ。内装は、単にベニヤのような色で、大変粗末そうなベットと40X30のライティングスペース、ユニットバス。クーラーも大変古く、うるさい。自分の部屋のクーラーを止めても、隣の部屋のクーラーの音とゆれが伝わってくる。これでは、ビジネスマンは大変だ。税込み5040円。
 私の日本一周の時の基本は、夜は公共の湯にできるだけ遅くまで入っていて、でたら、「道の駅」の駐車スペースで自分の車の中で寝るでしたが、今回は失敗。夏だと、東北の南部以下、車中が暑くて、クーラーなしでは寝れない。窓を開けていると、虫が入ってきて眠れない。
 米原の駅前は、線香くさかった。米原は、新幹線も停まるし、北陸本線への分岐点なので、さぞ、大きな街とおもっていたが、米原町だ。「市」ではないのだ。駅前には、「HEIWADO」というスーパーが一件あるだけで、飲食店も少しあるいたところに点在。郊外に行かないといけないようだ。後でわかったが、隣の長浜市がにぎやかだ。
 朝になると、こんなビジネスホテルでも、それほど気にならないのが不思議だ。

8月15日:賤ケ岳、奥琵琶湖をめぐり、瀬田の唐橋をみて、野洲のビジネスホテルへ泊まる

 今日は、琵琶湖三昧だ。東京は、晴天だったと思えるが、こちらは曇天で、途中、2回土砂降り。
 琵琶湖は、湖北(木の本)と湖南(堅田や大津)では、雰囲気がまるっきり異なっている。そして、湖の北側(山側)と南側(平野側)でも雰囲気が違う。しかし、どちらも水が近くにあって、自然が豊かなところは、羨ましい限りだ。途中で、「都民は怒れ」と思ってしまった。同じような税金などを負担していながら、利用できる公共施設の違いや、自然環境の違いがあり過ぎる。
 歩いて5分か10分のところに水(川や湖、海)がある風景と言うのは、なんとなく気持ちが和む。それに、どこからでも山も眺めることができる。冬場は、スキー場へも1時間もかからない。琵琶湖の周辺は、予想以上に精神的に豊かに生活できるところではないかと感心し、自分の生活を考えると落胆だ。
 朝9時過ぎに出発し、途中の「道の駅」できつねうどんで朝食。それから、使い捨てカメラを買おうかなあ、と思っているうちに、賤ケ岳のリフトのところについてしまった。近い。
 普段は、観光客が来ないようで、売店に使い捨てカメラが置いていない。雨が降りそうな天気なので、そのまま進む。
 駐車場から50メートル程度?登ったところにリフト乗り場があり、そこから賤ケ岳の山頂へのリフトだ。リフトを降りてから、あと、300メートル歩いて登ると山頂に着く。ウォーキングシューズで来て正解だった。前日、雨が降ったようで、すこしぬかるんでいる。
 山頂の公園は、廃止された公園のようで草ぼうぼうだ。山頂からの琵琶湖の眺望はすばらしいのだが、曇天のためか、遠くまでは見えない。
 古戦場は、そばにある余呉湖を挟んで、賤ケ岳(秀吉軍)と文室山(柴田軍)が決戦した跡だ。昔は、ササなどの背丈が低いものだったと記述されてるが、現在は、木々が生い茂っていて、甲冑をかぶって、よくこんな山の中を歩けたのかと、想像ができない場所だ。先週の日曜日に「利家とまつ」ではこの合戦を扱っていたので、それなりに人が出ている。
 熊本の田原坂(西南戦争)や静岡県の三方ケ原(武田信玄と徳川家康)の跡をたどっても思うのだが、今では、そんな戦があったなどとは信じられない。織田信長の、桶狭間などの跡地は、現在住宅地の真っ只中だ。
 途中、秀吉の居城があった長浜を通ったのだが、琵琶湖の湖上運送に適した場所であることが感じられる。
 現在では、琵琶湖の海上運送など想像もできないのだが、道路が整備されていない時代は、水運がメインで、かつ、一番便利だったと、本などに書いてあるが、これも今では中々信じられない。その後、奥琵琶湖パークウエイというところを行く。
 西浅井(nishi-azai と読む)町にある。ここの駐車場で、コンビニ弁当をたべ、ボーと琵琶湖を見て、午後1時までのんびり眺めていた。湖の上の淵を、海岸線に沿って走ってみると、リゾート地帯であることが理解できる。キャンプをしたり、バス釣りをしたり、泳いだりしているのだが、海岸線がとにかく長いので、どこも、そんなに混んでいない。冬は、その北側の山にスキー場があるようだ。奥琵琶湖といわれるこの一帯で、大阪から電車(快速など)で2時間はかからないから驚きだ。
 堅田から大津へは、渋滞だ。湖のそばに幹線道路が一本しかないので当然だが、それでも、湖を垣間見ながらなので、それほど退屈しない。大津を過ぎたことろで3時半を超えたので、休憩。
 京都への入り口であった「瀬田の唐橋」を見に行く。写真にとって終わり。駐車スペースが近くに無いため、ゆっくりできない。
 そして、有料の近江大橋を渡り、そして、大津の対岸を北上して、今回の旅の目的の一つであった「琵琶湖大橋」を往復して、野洲へ着く。琵琶湖マラソンの中継を見ていて、一回は渡ってみようと思っていた。
 大津の対岸が無料の休憩スペースになっており、テントを張っていたり、釣りをしたりと、非常にのんびりした風景だ。比叡山に夕日が沈む風景が見える!どこかでも見たことがあるなあ、と思っていたのだが、地方の中核都市(特に城下町)は、だいたいそのような作りになっていることを思い出して、「都民よ怒れ」と言い出した次第。
 琵琶湖周辺は、昔から開かれていたためか、それらを記念した博物館や資料館が目白押しだ。とても見切れないので一つも見ないことにした。
 今日は、IBMの野洲事業所で有名な野洲(やす)駅前のビジネスホテルだ。4300円にも拘わらず、昨日と雲泥の差だ。明るく、廊下にも冷房が入っている。受付は老人だが、受付そのものが明るい。
 野洲と米原の立地の違いがあるのかも知れない。野洲は、完全に大阪までの通勤圏に入っている。電車の本数が違う。ここら当たりまでが大阪・京都の通勤圏かなあと、実感。それにしては、関東の通勤圏に比べ、のどかで自然が豊かに感じるのは、私だけなのだろうか。

8月16日:安土城跡、姉川古戦場跡、小谷城跡をめぐり、帰路へ

 朝7時過ぎに起床。昨日は、10時前に寝たので朝弱い私でも、目覚めた。曇りです。無風状態。窓からは、IBMの野洲事業所の工場が見える。田舎の中の工場と思っていたのだが、住宅地のなかだ。それも、野洲駅から歩いて5分程度。
 安土城跡は、これは中々のものです。とにかく、暑い中、登り降りでクタクタだ。
 入り口あたりに、秀吉と利家の役宅跡があり、二人の位置が想像できる。しかし、階段の高さが高いので、当時、着物をきている女性は、大変ではないかと思う。安土城そのものの警護の人数は、大したものではないものと思える。足軽などのいるスペースがほとんどその山中にないからです。逆に、信長の力が強く、城そのものは守るためのものではなく、象徴のような存在になっていたのではないか、と思う。これも、安土城城郭の博物館などを見てくればよいのだが、その種のものが種々あるので、今回は無視。
 予定通り、姉川古戦場跡、これはなにもなく、人もいなかった。姉川は、急流との文章に書かれていたように記憶しているが、土手がしっかりしていたその風情はない。しかし、そのあたりは、平野なので、決戦場にはピッタリ。
 小谷城跡は、山の中腹まで車でいけたのにも拘わらず、まだ、30分程度歩く必要があるため、歩かないで終了。こんな山の中に「お市の方」も生活したなど信じられない。水を持っていくだけでも大変だ。
 午後は、福井の越前海岸にある公共の風呂で汗を流した。途中、敦賀までの国道9号は、渋滞だった。
 夕日は残念ながら無理だった。しかし、天気のいい日に海岸線を走るのは快適だ。
 午後6時40分過ぎごろ、金津ICから高速に入る。尼御前SAで、夕日が見えるようだ。事前に分かっていたら、高速代をケチらずに、早く高速に入っていたらよかった。
 また、立山を走りながら見ようとしたが、曇っていたのと、時間が遅くなってしまっていて、無理だった。夕日と、夕方の立山の両方を狙うのは、一日では難しい。
 今回は、長野経由で帰る。両面の一車線なのには、驚きだ。通常は、長岡経由がよいようだ。長野県に入ると雨が降り始め、途中で、土砂降りになり、軽井沢を過ぎると、霧と靄で、この道を選択して後悔していたのだが、新潟経由だと、霧で伊香保ー渋川間が通行止めになっていたらしく、何時に帰宅できたかわらなそうで、今回は長野経由が正解であった。
 結局、朝の4時に帰宅して、今回の「利家とまつ」の跡をめぐる旅がおわった。意外と元気な自分を確認できて、嬉しかった。

総括

 琵琶湖のある国は「近江」と呼ばれていた。近くの海=江=琵琶湖の意味のようである。ちなみに、遠江は、浜名湖を示す浜松あたりをさしている。
 琵琶湖周辺をドライブしていると、湖に隣接して、かなり広い平地が広がり、豊かな稲作が想像される。これらの穀物が京都へ運ばれる。そして、どこからでも山が見える。また、若狭湾が、東京で考えるより近いのが、こちらに来て実感できる。
 お米と、魚の通り道の近江は、その意味で、京都=都の関心が深いところといえる。その意味で、戦国時代、この地を確保しておくのが困難だったのも理解できる。
 琵琶湖周辺は、歴史が古いので、美術館や博物館などの展示する場所がいたるところにあるのに、驚かされる。何より、琵琶湖がそばにあるので、水が近くにあって、それが精神的に豊かな生活をもたらしているのだろう。
 生活はそこそこできて、収入がある人で、昔のことに興味のある人には、ぴったりの土地であると理解できた。